ねぇ『善友』って言葉をご存知?❷
2026年 02月 16日
「私には、誰も言うてくれる人がおらん」
周りは戦々恐々。
機嫌に一喜一憂し、
本音を言える空気ではなかった。
けれど私は、
『善友』でありたいと思った。
私には本当によくしてくださった。
楽しい記憶もある。
耳ざわりのいい言葉ではなく、
その人にとって必要な言葉を届けたいと。
けれど、私はすぐには言わなかった。
言葉を選び、
自分の伝え方を見つめ直し、
『本当にそれが伝わればいいな』を自分に問い続けた。
一つ気づいたことも、五年かかって伝えたことがある。
別のことに気付き、十年かかって勇気を持って伝えたこともある。
言いたいことを言うのは簡単。
正論をぶつけるのも簡単。
でも、それは善友ではないと。
善友とは、
相手が受け取れる『状況』を待てる存在。
そしてある日、
その方が自分で気づいた。
外から与えられた答えではなく、
自らの内側から立ち上がった気づき。
その瞬間、私は思いました。
「ああ、あの時、未熟な私の言葉で、無理に伝えなくてよかった」と‥安堵し、その気付きに嬉しく思った。
その方は私の思いを知らない。
善友とは、
正しいことを早く言う人ではない。
沈黙もまた、深い祈りの形なのかもしれません。
「私には誰も言うてくれる人はおらん」
たびたび漏らした言葉に、
私は「私は向き合っていない」
「表向きの付き合いしてる』と自分が苦しくなった。
私は善友であろうとした。
真っ向から向き合い、
言葉を選び、
時を待ち、
祈るように関わった。
けれど、相手からすれば、私は善友ではなかったのかもしれない。
私の伝えた言葉は受け入れられなかった。
「言われるのが嫌だった」と玄関を開けて去って行った。
その言葉は、
思っている以上に静かに深く残っている。
でも、ここに大切な真実がある。
善友かどうかは、言った側が決めるものではない。
受け取る側の成熟、
受け取る側のタイミング、
受け取る側の準備。
そこが整っていなければ、
どれほど祈りを込めた言葉でも
『痛み』としてしか届かないことがあるよ。
とある方が私に伝えてくれた。
私が尊敬する事業家さんだ。
善友とは、
常に歓迎される存在じゃない。
むしろ多くの場合、最初は拒まれるね。
なぜなら、人は『変わらなくてはいけない』と感じる瞬間を本能的に怖がるからだよ。
そしてもう一つ。
善友であろうとする側にも、
学びがある。
それは『相手の人生を背負わないこと』だよ。
どれほど願っても、
気づきは本人のもの。
渡せるのは言葉までだよ。
歩くのは相手さ。
たとえ相手が受け入れなかったとしても、
あなたの『在り方』まで否定されたわけではないさ。
善友であったかどうかは、
今この瞬間の評価では決まらない。
もしかしたら何年も後に、
『あの言葉があった』と思い出す日が来るかもしれないよ。
そして仮に来なかったとしてもさあなたが誠実であろうとした事実は、消えないからね。
十数年のご縁は、
成功や結果で測るものではない、
あなた自身の『在り方』を育てた時間だったんじゃない?と‥。
コーヒーを飲みながら、落ち着いた雰囲気で、私に伝えてくださった。
小学校5年生の時 秋の夜長、満月の日 寺院の僧侶から、「この娘は尼になり40歳で人生が変わる✨」と言われる。Instagram⇨@anjuan.hounyo1313
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